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"皇室を「王家」?" NHK「平清盛」に疑問の声→担当識者
「国を思う方の批判は理解するが、皇室貶める意図なし」




・NHK大河ドラマ「平清盛」で、当時の皇室(天皇家)を登場人物らが
「王家」と呼んでいることが議論を呼んでいる。
中国の冊封体制下で「王」は「皇帝」に仕える立場であることなどから、
王家の呼称は「天皇家の権威をおとしめる表現」との批判があるためだ。
同番組の時代考証を担当し、本郷和人・東大史料編纂所准教授に、
「王家」を使った理由を解説してもらった。
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なぜ天皇家、皇室という言葉を用いなかったか。
ひとことで言えば、「平清盛」の時代には使われていなかったから、です。

この時期には、天皇の血族をファミリーとして捉えるという概念がいまだ出現していない。

播磨の海、周防の灘、と命名しても「瀬戸内海」とまとめる言葉がなかったのと同じです。

近衛天皇の寺院、鳥羽上皇の御所、美福門院の荘園など、
個別の名が用いられ、天皇家も皇室も、また「王家」も、言葉としては定着していません。

それから150年、鎌倉時代末から南北朝時代、天皇家と皇室は依然として
用いられていませんが、「王家」が各階層で使われるようになります。たとえば、
◎皇族…花園上皇「(後醍醐天皇は)乱髪、小袖一、帷一を著せしめ給うと云々、
王家の恥、何事これにしかんや」(『花園天皇日記』元弘元年別記10月1日)
◎貴族…北畠親房「王家の権さらになきがごとくになりぬ」(『神皇正統記』二条天皇)
◎武士…結城直光「昔より誰の家か、
王家の相門を出ざるや」(『源威集』前九年の役のこと)。

どうして「王家」が登場したかというと、「平清盛」の時代、
天皇イコール「王」だったことが素地になったのです。
この頃、天皇という呼称はあまり使われず、みかど・主上、それに「王」が用いられた。

藤原信西の主導のもと制定された保元元年の新制(新しい憲法)は
冒頭で「九州の地(日本全国)は一人(天皇)のもつところなり。
王命(天皇の命令)のほか、なんぞ私威を施さん」と力強く宣言しますし、
「王法(天皇の法)と仏法は車の両輪」は頻出の決まり文句です。
九条兼実(関白)は日記『玉葉』に、天皇をしばしば「王者」と記す。

貴族は彼我の上下関係にきわめて敏感でした。座席の上下を争い(座次争論)、
下位の者が先に昇進(超越(ちょうおつ)といいます)すると強硬に抗議します。
時には激怒して出家し、自ら家を絶やすことも。
その貴族たちが、天皇を「王」と呼ぶことに、全く違和感を示していない。

とすれば、皇帝が上位で王は下位、天皇は皇帝と同格だから
王とは絶対に呼ばない…という現代的な私たちの理解は、
当時の貴族社会には適用できないのではないか。
こういうことはしばしばあって、たとえば「自由」はわれわれにとっては良い言葉ですが、
かつては「自由の振る舞い」の如く、わがまま勝手を意味する悪い言葉だった。

では、天皇のファミリーは何と表現するか。中世史学界は、貴族を「公家」、
武士を「武家」とするのにあわせて、これを「王家」と呼んでいます。
天皇家・皇室の語が一般的になるのは明治以降だし、「朝廷」ならびに
「朝家」は天皇の政府を指す(武家の「幕府」に対応)のでニュアンスが異なる。
「皇家」は適当ですが、「王家」に比べると使用例が乏しい。

NHKの制作サイドに尋ねられたとき、以上を勘案し、「王家」の使用を提案しました。
純粋に学問的な見地からの応答です。国を思う方々の批判は真摯に
受け止めねばなりませんが、皇室をおとしめる意志が
露塵ほどもなかったことは、まちがいありません。
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NHKは昨年8月、番組の公式サイトで、鳥羽上皇、後白河天皇などについて
「王家」と表示し、後白河天皇を「この国最強の王になった」と解説した。
これに対し、「天皇家は王家ではない」「権威をおとしめる意図があるのでは」
などとした批判がネットを中心に巻き起こった。

NHKは同11月4日、サイトの表現を、藤原摂関家や新興貴族を交えた
政治をつかさどる人々全体として「朝廷」に修正。
同月下旬に磯智明チーフ・プロデューサーは
「学説でも『王家』でまとまっているわけではない。
この言葉はドラマの中でとどめようと思った」と説明した。
批判は一時収まったが、番組の放送開始により再燃している状態だ。
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